時々哲学の話を書く。
18世紀イギリスの哲学者ヒュームは、「原因と結果の関係は絶対ではない」と看破した。煙を見たら火が原因と思うものだが、実際はドライアイスかもしれない。
そして宗教は悪いことの原因を司祭が悪魔のせいと固定する。
ヒュームの看破以降、近代では宗教ではなく実験科学が台頭し、原因と結果の関係を確実にしていった。
この話を広げると、「対策と結果の関係も絶対ではない」。結果から原因を考え、原因から対策を行うが、対策の結果は絶対ではない。
例えば企業内の諸対策。ある個人の問題でも再発防止のために全社的に取り組むと、大勢の時間と労力を奪い本業が疎かになる。結果、またどこかの個人がついていけず問題を起こす。
原因を正しく解明すれば個人の問題として処理して全体の進行は止めないものだ。
しかし原因を個人ではなく全体の問題と捉えると全体の進行を止めて余計なルールをつくる。その方が一時的には格好いいが、長期的には行き詰まる。いつのまにかしなくなる個人が増え、全体の規律が下がる。
問題を個人と捉える人の多くは現場である。現場の声を吸い上げれば個人だとわかる。同僚からの評判、日頃の仕事ぶりなど様々な角度から洗い出す。
ただ何でも個人としてしまうと全体に本当に問題はないのかとなる。
一番良いのは両方とも見る、ではある。ただ個人と全体を履き違えてはならない。
処罰すべき個人を見逃す愚。全体に追加した無駄なルールにより処罰すべきでない個人を処罰する愚。冤罪による処罰後に真犯人を延命させる愚。
こうして誤った対策を繰り返していく。