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信長は自ら死を招いたのか?

 昨夜の「世界ふしぎ発見」は、本能寺の変ミステリー。

 実は明智光秀織田信長から密命を受けていて、6月4日に堺観光中の家康一行を京都へ招いたところを明智軍が襲うはずだったが、家康を油断させるために少人数で本能寺に泊まっていた信長を、家康と組んだ光秀が6月2日に襲撃したという説を採用していた。

 この説は、光秀の子孫という明智憲三郎氏が唱えたものの、多くの反対意見にあっている。まず、天下統一半ばの信長がこの時点で家康を襲う利点が何もない、家康も信長を殺すメリットがない。私もそう思う。

 明智憲三郎氏が論拠としたのは次の新事実だった。信長が小姓として使っていた黒人奴隷の弥助が、本能寺から脱出して宣教師のもとに逃れ、そのとき聞いた信長の最後のセリフを、宣教師が本国への手紙に書いたという。それが、「私は自ら死を招いたな」。

 この言葉は事実だろう。ただそれを明智憲三郎氏が言うように、信長が家康殺しの作戦を実行しようとして失敗したことだとするのは論理を飛躍させ過ぎる。

 彼は著書で「理科系による推論」としたが、逆に文科系によれば単純に信長が光秀を「キンカン頭」と虐めて追い詰めて恨まれたから自ら死を招いたなとなる。また、物を相手にするのでなく、人や物や心を総合的にみる軍事的観点からすれば、少人数で城ではなく寺に泊まった防備体制の薄さから自ら死を招いたなとなる。

 明智氏の子孫で、ご先祖の名誉を守りたい気持ちは分かるが、逆に信長が愚かだとすれば、織田氏の子孫が黙ってないだろう。もちろん本能寺の変は謎が多く、諸説あってしかるべきである。本能寺が種子島との縁の深さから信長が定宿とした経緯や、本能寺の多少の改築、泊まるたびに坊主を外に出したことなどの話もある。

 いろいろあってこんな防備の薄い寺に少人数で泊まることにした判断の甘さから、信長が「是非もない」(仕方ない)といって弓をとり、死を覚悟したのである。