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(直虎)因縁の9月15日

 いわゆる信康事件には諸説ある。

 

 織田信長が秀吉の正妻ねねに宛てた心がこもる手紙を知っている者からすれば、今回のような冷酷な魔王信長がしっくり来ない。

 

 そもそも最初のきっかけとなった田中城で起きた信康の近習、近藤武助の暗殺未遂事件からして、実際は高天神城での武田方の忍者の頭領、近藤武介の暗殺未遂事件だったから虚構からスタートしたことになる。

 

 まあ視聴者の多くは自分の中で全てがつながればいい訳だから、ここで若い武助じゃなく壮年の武介ですよと言ったって余計な雑音になるだけだろう。

 

 確かなことは、時代が大きく変わりつつある中で徳川信康が何らかのトラブルに巻き込まれて9月15日に亡くなった。それは当時の家康には何もできなかった。その後、1600年の同じ9月15日、関ヶ原の合戦が起きた。東軍がギクシャクしている中、家康は「倅がここにいたら」とつぶやき、「秀忠様のことですか?」と尋ねた側近に対し「信康よ」と言った家康はいつまでも彼の実力を惜しんでいたようだ。

 

 数々の理不尽な目にあいながら家康はついに、自らが天下人になった。

 

 

 

 

 

 

(この声をきみに)最終回には無理を感じた

 なぜ豪華キャストのこのドラマが深夜帯なのか? 最終回で分かった気がした。

 

 柴田恭兵が朗読教室の主催者、麻生久美子が教室の先生でヒロイン、ただし江崎京子は本名ではなく年齢も不明。主人公の竹野内豊は数学者で小学生の娘と息子がありながら妻(ミムラ)との折り合いが悪く離婚し、麻生久美子と心がつながる。他、教室のメンバーに杉本哲太堀内敬子大原櫻子片桐はいり等。竹野内の父は平泉成。確かに豪華だ。

 

 ふつう深夜帯のドラマは三流の俳優か若手、あるいは落ち目が多く、ストーリーもゴールデンではできない内容のものが多い。このドラマは朗読会という地味な舞台という設定なのでゴールデンにできなかった気もする。ただ、何故そもそも朗読会という設定にしたのか?

 

 最終回で柴田と麻生は言葉の素晴らしさを褒め上げる朗読を行い、その前に竹野内演じる数学者が子供の頃の夢を書いた文を読み、「いつか皆を幸せにする完璧な定理を発見する」話をしてそれぞれ拍手を受けた。

 

 脚本家の大森美香を調べたが、過去の作品はあってもプライベート関係の情報は一切なく、おそらく江崎京子は彼女自身だろうと推察した。しばらく疎遠にしていた家族のところへ戻る話も実話と思う。その際に慰留された経緯から生まれた作品だろう。そして、戻って竹野内のような格好良く声のいい純心な数学者と教会に入るところは願望だろう。妻子持ちの男性は格好よく見えるもので、更に現在の妻と別れることも願望である。

 

 さまざまな形式美を数式で表し、世界中を幸せにする完璧な新定理を追い求める男と、誰からも慕われる朗読教室の教師、つまり文系の女性との高次元の和を説く話だったのだ。そんな自由勝手な話は深夜帯に出すしかない。もしこの実験が好評なら、ゴールデンに出すことも検討するのだろう。

 

 ただ哲学者という言葉の定理を追う者から言わせてもらえば、文学と数学とはそもそも合わないと思う。哲学と文学、哲学と数学という例は多いけれども。

 

 

「対パパラッチ権」があってもいいのでは?

 小林よしのり氏が山尾事案を追う週刊文春の記者2名の尾行中の写真と実名をブログにあげると、文春側の弁護士から「肖像権の侵害」と抗議書を受け取ったため、さらにネタにしている。確かにストーカーが肖像権と言うと滑稽に聞こえる。

 

 一方、落選した若狭勝氏が「議員の不倫を規制するルールをつくるべき」とテレビで発言すると、「議員に限らず良くないこと」とネット上で叩かれていた。くだらない新ルールをつくる人こそ本当のルール破りと先日も書いた。

 

 風の吹き方を見て思いついただけの発言なのだろう。

 

 ところで、もしパパラッチによってありもしない不倫を報道されそうになった場合は、パパラッチから自身の身を守るためにも、尾行中の写真を撮ったり、パパラッチ側の素行不良を確認したりすることは正当防衛の1つとしてアリだと思う。

 

 現代はあちこちに監視カメラがあるので録画を確認すれば映っていることが多い。

 

 小林氏が裁判で文春側に勝てば、それを前例として今後は文春記者もやりにくくなるだろう。それが見えているからか、文春側の抗議も早かったが、今のところことごとくネタにされている。

 

(シン ゴジラ)ラストに出た尾のアップを見て

 大ヒット映画「シン ゴジラ」の地上波初放送。映画は見なかったが、レビューの幾つかにラストの尾に人間のようなものが見えたが何を意味するのか分からない、という書き込みがあったことを思い出し先ほど見た。

 

 なるほど、確かによく分からない。作者の庵野監督も何も語っていない。ネットにはいろいろな説があるが、どれも庵野監督とは一致していないと思うのでここでは書かない。ちなみに私はいわゆるエヴァファンではないので監督の世界をリスペクトもしていない。

 

 ただ、庵野監督がリスペクトしていると言われる漫画家、諸星大二郎には同じく評価している。諸星の作品「影の街」に触発されてエヴァンゲリオンが生まれた話も有名である。まだ知らない方は画像検索すると良い。では、諸星は何に触発されてこのシーンを描いたのか?と考えてみた。

 

 街中に巨大な猫背の男の影。おそらく「ゴジラ」だろう。伝説の初代ゴジラだ。ではゴジラは何に触発されて? 恐竜だろう。

 

 しかし、現代の恐竜はゴジラと違って、頭が大きく尾を引きずらない姿が真実となっている。つまり、日本人が好きな頭が小さく尾を引きずるゴジラには全くリアリティが無いのだ。それでも庵野監督は映画ゴジラを引き受けた。

 

 日本中に衝撃を与えた初期のシンゴジラの姿は、これまでの恐竜説を全否定するものだった。いわゆる深海魚のラブカをモチーフにしたらしい。ここから、魚類、両生類、と進化して、恐竜ではない生物という設定にした。

 

 そして「ヤシオリ作戦」が登場する。その名前は古代日本神話のヤマタノオロチに酒を飲ませた故事に由来するらしい。つまりゴジラは特に恐竜にこだわっていないので、ヤマタノオロチのような幻想的大蛇でもある。

 

 最後は神話同様に酒ならぬ血液凝固剤を大量に飲まされて終結する。日本神話では、ヤマタノオロチの尾から「草薙の剣」が出てきて主人公の手に渡る。これは体内に始めから剣があったのではなく、ヤマタノオロチが古代製鉄集団を意味し、砂鉄から鉄剣をつくって大和朝廷に献上したことから出来た話だという。

 

 それではシン ゴジラの尾がアップされて何人かの人が映っていたあれは何か? 「第5形態」で画像検索すると出て来る。ありそうな見方だがどの説にもないので書くが、凝固剤で固まったものだと思う。勝ったヤシオリ作戦と、敗れた彼らの姿があの尾なのだ。で、彼らとはマキ教授ではなく、日本中枢を狙った高度な知能を持った誰かたちであり、尾から操縦していたのだと思う。

 

(直虎)ラスト氏真がおかしい今回

 ある書き込みで、直虎は井伊を潰したが直政は建て直した、とあった。

 

 一見そう見えるが、直虎の時の上司は今川家で、直政の時の上司は徳川家、という点がまず違う。もしも直政の上司が今川家で家康ではなかったら、小姓になることすらないし、評価されないままだったろう。

 

 直虎の時の今川家は、現代でいえば老舗のブラック大企業。井伊家の支店長は代々その謀略で消えていった。直虎もハメられかけたが、今川ブラック企業はボンボンの若社長が武田カンパニーに敗れ、なんとか助かった。

 

 そんなボンボン元社長の氏真が、今回は最後に登場した。まだ出る意味があるのか? 相変わらず女性脚本家の意図がよく見えない時がある。今さら家康が氏真を頼るのか? 史実の記録もないし、その他の証拠もない。

 

 そんな氏真が出てくるシーンで締めくくられると、今までの家康の決定に生母お大が絡んでいたことも信康をめぐる疑惑の全ても嘘くさく見えてしまう。

 

 もちろん、信康捕縛の場に直虎が居合わせる訳がない。どうしてもそうしたいなら、居合わせたことで次回以降、直虎や直政に大きな変化をもたらせる構成にするべきである。

 

地方活性化のためにも循環型システムを

 日本海側のある地方に行くと、空き地に錆びた滑り台が放置してあるのをよく見た。何年も誰も気にしていないのか? 

 

 おそらく、日本海側に限らず、また滑り台に限らず、たくさんの錆びた物が公然と放っているのだろう。割れ窓理論によれば絶対に良くないはずだが、気持ち的にも予算的にも余裕がないのか?

 

 そこで提案なのだが、こういった放置案件の報告、検討、撤去、交換にも経済上の需要があると考え、そういった産業や資格者の育成を活性化してはどうだろうか?

 

 これこそリサイクルに限らない本説の循環型社会なのだが、うまくいけば螺旋状に良くなっていく。地方に人口も増える。

 

 そもそも循環型社会の江戸時代には地方にも活気があったのだ。現代の経済方法だから太平洋側に人が偏った。こちらのコンビナートも今や錆びまくってきたが。

 

 

(この声を君に)大成功したドラマではないか?

 7話も名作だった。

 

 決してイヴァンカ・トランプのような美女ではないはずの麻生久美子が、ここでは高嶺の花のような美人に咲き誇る印象を確かに与えている。「泣くなハラちゃん」の時もそうだったが、こんな特殊なヒロインが物凄く似合う女優なのだ。他に代わりはいない。

 

 そして竹野内豊もどこからどう見ても数学者にしか見えないほどの芸達者であり、その堅物が徐々に軟化していく絶妙な加減も天才的に演じきっている。他の豪華な役者陣(柴田恭兵平泉成ミムラ杉本哲太他多数)を脇役に追いやれる実力は確かにある。

 

 筋書き自体は朗読会が主戦場のせいか地味なのは仕方ないが、深夜に酒を飲みながら主役2人の真の実力を鑑賞するだけでもう十分な気がする。たぶん次回最終話で穂波の離婚は覆らないし江崎京子は穂波とくっつくことはないはずだし、そうはいっても何か教えられることの多い内容になるとは思う。

 

 現実の周辺の朗読会に江崎京子のような先生なんて絶対にいないはずだが、むかし両さんが亀有公園前の派出所にひょっとしたらいるかもしれない期待と錯覚を抱かせたように、各レビューの多数の好意的なコメントにあるように、もしかしたらそんな魅力的な先生が意外と近くにいるかもしれない思いを視聴者に与えただけでも大成功だと思う。

 

 エンディングのJUJUの歌も相変わらず良かった。