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ルールを守るからルールが増える逆説

  神戸製鋼の違反についての記事で、「そもそもルールが多すぎる」というコメントが上位にあったが、確かに最近は特にどこもかしこもルールが増えてきている。

 

 なぜルールが増えたか? 建前上は事故や問題防止のためと言うだろう。しかし、このコメント賛同者たちが言いたいことは、ルールが増えたからさらに問題が起きたのだ。守るべきルールが闇雲に増え、どちらかを守ればどちらかを破ることになる。例えば時短を守ってるか管理表を毎日提出しろと言われた作成者が時短を守れなくなる。

 

 これはルールを出す方が悪い。考えずにルールを出し過ぎる。良い例では、新しいルールを守らせるために実際的な補足を加えたり、古いルールを公式に引っ込めたりする。

 

 考えずに情念の赴くままルールを増やし過ぎた行き着く先は、反乱や革命もあり得る。歴史上このパターンは多く、結局バカな王や皇帝を取り替えるしかなくなるのである。

 

 では繰り返しになるが、なぜルールを増やすのか? 歴史や周りの現実を見る限り、逆説的だが、皆がルールを守るからと言える。誰もがルールを守っても事態が良くならないと思えば、これも守るだろうと、さらにルールをつくり、当たり前のようにルールが増える。

 

 もしも野蛮でルールを誰も守る習慣がなければ、ルールは増えようがない。

 

 だからルールを今後も守り続ける限り、明日も明後日も来月もルールは追加される。そしていつかは、ルール破りが出て来る。彼に悪気はなく、まさに非自発的違反者といえ、ある意味かわいそうな犠牲者である。それは中央から離れた遠方であったり、新人であったり、または時代遅れがちな老人であったり、あるいは真っ直ぐな正義感であったりする。

 

 ベストなのは、ルールの数が適度で、内容が適切で、あると誰もが助かり、まともな人が違反者にならないことである。

 

 そのためにも、ルール作成側は良いブレーンを揃え、適格な判断を行わなければならない。そのためにも議員や役人、企業幹部の現代的な公職追放か自らの考え直しが必要なのだが、そこに動きが無ければ、ルールをただ皆が守るだけでは逆に事態が悪化していく。

 

 註:言いたいことはもちろん「ルールを破れ」ではなく、「ルールはよく考えて出せ」である。よく考えてルールを出せず二次災害を起こす場合はそれこそルール違反に当たる。新法を追加して事態が良くならないことも同じ。良くならないのに新法を引っ込めないことも同じ。そもそも新法を出す立場で良いのかという問題になるし、周囲も何も声を上げなければ責任は同様にある。

 

 

資格ビジネスを循環させる試案

 そういえば今まで資格ビジネスの話が抜けていた。例えば昔とった資格の内容が古すぎて現代に役立たなかったりする例はよくある問題点だと思う。

 

 話を本ブログとメインサイト(ツインサイバーシステム)で説く循環型経済から書く。まず、「衣食住✕衣食住」の9業界で「衣の衣」はいわゆるモード業界、ファッション業界としてきた。その循環は、

 

 「インストラクターが教え、教え子がコンテストに出て、コンテストの結果をメディアが報じ、報道を見て評論家が分析し、分析結果をインストラクターが採用すると循環する」ものだった。

 

 しかし、実際のモードやファッションは世界のどこかで今年の流行が決められて一方的に広がっていく直線型であり、他の経済分野と同じく資源(枯渇)のことも環境(汚染)のことも考えられていない。大量生産大量消費を実現するためのモードなのだ。

 

 それでは4者交換(カルテットエコノミー)は、現実には難しいのかもしれない。

 

 ただし、インストラクターという職業はスポーツや資格ビジネスにも多い。

 

 インストラクターに教わった生徒は資格試験に挑戦する。そこにカネのやりとりが起きる。試験結果は出るがそれをマスメディアは特に報じてはいない。そして資格は一度とれば一生ものだったりする。

 

 日本では資格ビジネスは一見盛んに見えるが、問題がなくもない。冒頭に述べた通り真面目に見直せば、学んだ時のテキストが古いと現在に役立たなかったりする。安く簡易に更新できれば良い。また、インストラクターの教育も古かったりする。

 

 もし本当にその分野の発展を望むならば、資格ビジネスを循環させ、「インストラクターが教え、教え子が受験し、受験結果をマスメディアが報道し、報道を受けて教育方法を評論家が見直し、インストラクターが採用する」または、資格内容を変えていく。

 

 この循環を推進するには、一見循環とは無縁なはずの国家、機関による統制も必要で、中央機関が吸い上げと放出を適度に行ってこそ循環が徹底される。

 

 

(直虎)近藤武介のエピソードは出たものの・・・

 小姓、井伊直政が初陣のとき寝所に忍び込んだ武田の忍者を斬った話はよく知られている。

 

 脚色が多い今大河でその話自体が出るか出ないか気になっていたところ、確かに出るには出た。視聴者は直政の活躍に拍手喝采だろう。

 

 しかし、伝わる話では近藤武介(ドラマでは武助)は忍者の頭領と言われ、あんなに若くはない。信康の部下として随行しているとはいえ、あんなに若ければ手柄1万石に違和感を覚える。

 

 武田忍者の頭領自身が家康を暗殺しようと近づいたところ、小姓・直政が武士らしく警戒して武士らしく気づき、武士らしく主人を守った。そして捕縛した。このように描けば、井伊直政が武士として優秀なところが際立つはずだ。

 

 しかしドラマでは、気配に気付くところまではあってもその時は仕留められず逃げられ、次に横になった際に偶然、薬箱の結び目の違いに気付き、名探偵ばりに推理し、罠をかけた。「薬担当の小姓(直政)が寝てしまって起きない。誰か薬を出せる者はおるか」と。

 

 真犯人はそんな時みすみす現れるだろうか? 忍者ならなおさら姿を隠し出てこないだろう。まるで直政に現代の警察や探偵のような要素を含ませているようだが、むしろ時代劇らしくない。

 

 ドラマの直政は今のところ好評だが、実際はもっと武士らしかったはずで、だからその後の各合戦での大活躍がある。その武士らしさ、武将らしさを抑え気味にしてよくあるヤンチャ坊主に描く意図は、主人公直虎をあくまでも引き立てるためだろう。

 

 終盤で直虎を見習って直政が落ち着いていく筋立てならまだ良いが。

 

 

学校教育に戦術の詳細を加えるべき

 偉人や英雄の伝記を読む他に、過去の戦記を知ることも有益である。

 

 勝った方の戦術がいかに正しかったか? 敗れた方の間違いは現在にどう参考になるか? 知ると知らないとでは実際的な思考に影響の差が出ると思う。

 

 戦術を説いた本は図書館で無料で読むこともできるし、書店やアマゾンにも手頃な値段で売られている。またウィキペディアにもたいていの戦いは詳しく載っている。

 

 誰の戦術がどう良いかという話はここでは割愛する。読めばその魅力や凄さが分かる。ブログで説くものではないし、多くは図面が必要である。

 

 ただやはり、戦術家としてはアレクサンダーやハンニバル韓信モルトケロンメル、ナポレオン、バトゥ、秋山真之などは一流であり、誰もが常識として知っていなければならない。

 

 もちろん現代の戦争とは技術も環境も異なるけれども、どの分野にも通じる真実が多い。学校教育でも、「カンナエの戦い」や「関が原の合戦」、「ワーテルローの戦い」などは教えたっていい。そこで生徒は、ワーテルローの指示待ち姿勢による敗北を教訓にする。

 

 戦術教育は、個人の天才の能力の育成というより、高度な戦術を用いる凡人の勇気こそ育まれると思う。

 

 

(直虎)家康の裏には常に直政?

 徳川家康の名参謀、本田正信の名が本格的に目立つのは晩年である。それまで何をしたかとなると、本ドラマでは、流浪の旅から戻ったノブ(正信)が直政の参謀になっている。直政が関ヶ原の変で没した後、ノブは家康の参謀になるという訳か?

 

 また家康は晩年とくに薬への詳しさが目立ち、自ら煎じて飲んで75歳の長寿をまっとうした。その家康の薬の知識も、本ドラマでは井伊家由来で僧や方久が元になっているという。長篠で用いた柵も井伊の木だというし、関連づけには非常に感心する。

 

 ドラマ視聴者は家康の漢方薬好きも印象づけられ、それは良いことだと思う。

 

 ただ、次回の初陣で家康暗殺のために忍び込んだ武田の頭領級の間者を直政が気付いて切り捨てる逸話は絶対に入れなければならない。そうしないと脚本家の作り話だらけになる。

 

 以前の大河では信長や秀吉の裏に常に江がいて助言していたが、あれもどうかと思った。前節青島都知事の裏に何があるかの話はメインサイトに載せた。

 

 

 

 

未開の経済から未来の経済へ

 本日メインサイトに書いた話を簡略化するとこうなる。

 

 第1段階:山の米と川の魚の交換(2者直接交換)

 第2段階:米を売って貨幣を得て(2者交換)、川の魚を貨幣で買う。

 第3段階:米を貨幣で大量に買って、米屋に売って利益を得る(卸問屋、米相場)。

 第4段階:米を食べて出た人糞を肥料にして稲作を行う。(江戸式循環経済)

 

 未開社会から文明社会へと進む直線上に、上記の段階もあり、現代でも未開社会では第3段階はない。日本では江戸時代に大阪で米相場が始まった。

 

 アメリカでは19世紀にフォードが自動車をオートメーションで大量生産することに成功し、そこから「大量生産、大量消費」の経済が「近代的」と言われるようになった。その近代化が本当に合理的だったかどうかは、深刻な環境汚染を招いて間違っていたことは明らか。そこで20世紀後半は環境問題への取り組みが進められた。

 

 中国は遅れてその流れについていっている。日本ではゴミの分別や資源の再利用、またトヨタのように無駄な在庫を抱えないこと等は当たり前になってきているが、もともと江戸時代から上記のように循環型経済は染み付いていたとも言える。そこでこれを第4段階とした。

 

 第4段階には4つの主体が関わる。生産者、卸問屋、販売店、購買者でもある堆肥提供者。金属加工においても生産者、商社等の流通業者、末端の販売店、そして購買者でもあるリサイクル時の金属提供者。そこでこの考え方を4者交換と新たに名付けることにした。

 

 4者交換は、果たして未開から文明への直線上の未来に位置しているものか? 自分はそう思う。大量生産、大量消費、そして大量投棄、さらに大量発掘による資源枯渇も非常に馬鹿げていると思う。しかし現代の大勢の人々は直線経済から脱することができていない。

 

 ならば頭が良いとされる人に循環型経済を提示してはどうかと思い、学者やIQ上位団体、欧米の環境団体にも発信はしてみたが反響はない。

 

 過去のわずかな成功例としては故青島幸男氏だが、稿を改めたい。

 

 ともかく理論的には4者交換が全業種で敷かれることにはなると思うが、実際的にはまったく見えない。

 

4者交換の世界

 田舎に広い土地があるので、時々起業を考えている。

 

 農業、革製品、ネット・・・。「独立するのは50歳を超えてからや」と言ったのは太秦映画村の占い師。その後の24年間を振り返ると、だいたいその通りになった気がする。字画と生年月日からのようだったが、誰かこの当時の映画村の占い小屋を知っている人は他にいないだろうか?

 

 もっとも良い起業は自説を活かしたものだ。経済学の通説では2者間の交換が基本だが、本ブログの異説では4者を基本に交換を行う。

 

 AがBに提供し、BはCに提供し、CはDに提供し、DはAに提供する。ABCDに入るものは何か? 一例をあげると、Aマイケル・チャン、B錦織圭、Cメディア、Dスポーツ科学

 

 理論的には可能だが、実際どうするのかは、5年後を待とう。