草分け中

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(人相)井上公造、蓮舫、そして・・、

 テレビに出てくる人の中で、「あの顔(顔つき)が嫌い」とコメされる人を3人あげたい。

 

 1人は芸能リポーター井上公造。最近はイニシャルでもったいぶって「大物芸能人が離婚しそうだ」と言うものの、誰もがイニシャルが誰かよりも井上そのものを顔つきの悪さから嫌い始めている。

 

 2人めは民進党代表の蓮舫。昔は美人だったかもしれないが、代表になってからますます人相が悪くなっている。では3人めは・・、

 

 同じく民進党辻元清美が挙げられる。別に政治好きではなくテレビ映りの悪さからこの3人に帰結した。

 

 あえて共通点を探れば「必死さ」かもしれない。井上公造芸能リポーターという職自体の存在が細っていくなか生き残りに必死と言われる。蓮舫も辻元もそうだ。

 

 しかし、誰のためにやっているか分かっていない。もしそれが分かっていれば、あんなイニシャルトークはやらないし、国民生活とは遠い揚げ足取りもやらないはずだ。

 

 

(直虎)愛知県新城市が二度でた

今日のタイトルは「盗賊は二度、仏を盗む」。

 

終わった後、いつもの解説に出てきた地名は愛知県新城市。しんじょうではなく、しんしろと読む。

 

その後、ニュース番組に移り1番目は東名高速で起きた乗用車がバスに突っ込んできた事故。バスの運転手が初めて取材に応じたという話で、入院先の病院があった場所は、なんと愛知県新城市と右上に映った。

 

今日のタイトル通り、まさしく2度出てきた。このタイトル、過去の有名作品からの借用でもある。

 

次回は「さよならだけが人生か」と、これまた過去の有名作品からの借用。悪く言えばパクリ、良く言えばオマージュなのだろう。

 

かように大河は時間稼ぎのような話が続くものの、最後の偶然には少し驚いた。

 

 

(直虎)架空の龍雲丸のモデル

 大河ドラマ好きは最近の直虎をどう見てるのだろうか?

 

 確かに途中までは知らない史実が出てきていた。直親の娘、高瀬姫も実在していたし、瀬戸方久という商人上がりの家臣も調べると本当にいて、ムロツヨシの演技も非常に良い。

 

 ところが、龍雲党の頭、龍雲丸ははっきりと架空とあり、それがここ最近ドラマの多くの時間を占めている。そして女性脚本家が本来書きたかったらしい女城主の恋愛を描こうとしている。視聴者はそこまで付き合わねばならないのか。架空の人物などもっと脇で良いだろう。

 

 と、思ってたらこの龍雲というネーミングも気になった。一見、龍の形をした雲のイメージや、龍の強さと雲の自由さを兼ね備えているのかと思わせるものの、戦前に実在した史上最悪の凶悪犯、大米龍雲もこの名前なのだ。しかも尼僧を主に殺している。

 

 NHKや脚本家はそれを知っててこの名前にしたのかどうか。聞いたことはあるが忘れていたのか。架空の人物にはモデルがあるものだが、どうもこの設定や名付けはいただけない。

 

 寺で成長した直虎が悪い男に幻惑されているだけの話に過ぎなく見える。

 

 

※7月11日加筆。

 静岡県内の龍雲寺から付けたという説あり。当時の住職は方久。出家前の名前は新田友作。気賀四人衆の1人だが、「直虎」では他の3人の名は出るのでこの友作こそが龍雲丸だとか。落城した城主の子とも。

 しかし、ならば架空の龍雲丸でなく史実の新田友作を実名で出すべきだが、出家後の方久という名前がまた瀬戸方久と被りややこしくさせるのか? 本名は新田友作でさぁ、と言うと架空ではなくなる。

 

 

 

堀江氏の「多動力」に通じる教育法

 堀江氏の「多動力」という本が売れているという記事があった。記事のコメントには賛否両論あり、どの書き込みも面白かったものの、ここでは次の考え方にのみ触れてみたい。曰く、

 

 「僕は80点を取れるようになるとあっさり飽きてしまうことが多い。ある程度ハマれば、大半の知識は得られる。そこから長い年月をかけて100点を取ることに執着せず、次のジャンルへ飛んだほうが、また新たな発見がある」

 

 こうして氏は多くの分野を身に着け、多くの肩書きを持つに至ったという。もし「多動力」が単に本が売れるだけでなく、実際に多くの人の生き方に影響を与えたらどうなるか? 世の各分野のインストラクターたちは生徒が増えて嬉しいことになるだろう。

 

 ただし、ホリエモンタイプの生徒たちは8割できたと思うと他のインストラクターの所へ移る。従来よりも短期間の生徒たちであり、そんな彼らに対しては10割の完成を求めなくても良いのである。

 

 もっと言ってしまえば、インストラクターが10段階に分けて教えていく場合も、各段階で10割を求めずとも、1段階目が8割できたところで2段階目へ進み、2段階目が8割できたところで3段階目へ進む。そうするうちに、1段階目のことが10割できるようになっている。

 

 いわば多動力の上記部分の応用編だが、教える立場の人の多くがこのようにはしていない。1段階目の8割から10割の間で時間を食い、2段階目に進んでもやはり時間が掛かっている。8割のできで進むことで残り2割をできるようにする手法を理解できないでいる。

 

 時間の無駄であり、やがて10段階のうちの途中で止まって終わる結果になる。

 

 

正反合の「合」は観念連合の「合」か

 19世紀哲学界の巨星ヘーゲルは、世界が弁証法的運動(正―反―合)で発展すると説いた。その後の世界は確かに、技術が進んで平和も進み、理性が実現していると言えなくもない。環境破壊やテロ、いじめ等の問題は「反」としてあれど、いずれ理性はそれをも克服して「合」に至ると。

 

 新聞メディアが両論併記して中立性を保とうとするのは「正―反」を併記して読み手に理性的な「合」をもたらすためだが、朝日新聞民進党の場合は「反対のための反対」によく見える。マルクスヘーゲルを仰いだように「理性的に完成した未来」を前提に置くから無理に反を述べているのだろう。

 

 逆に「理性的に完成しない未来」はあってはならないことか、といえば実存主義者でヘーゲルを忌み嫌ったキルケゴールの「単独者」に着目してみるといい。顔の美醜や背丈の違いをはじめどうにもならないことも多く、何でも公平公正で平等という訳にはいかない。

 

 そもそも、「正―反―合」を理性的解決だけに限定するから行き詰まる。野党が政権をとっても綺麗事が通用せず再び下野するのはそのせいだ。

 

 同じく「合」という字を使っている哲学があるだろう。18世紀イギリスのヒュームによる「観念連合」だ。人間の認識活動で行う観念連合に着目すれば、キリスト教会の因果論も観念連合の造物に過ぎず、実験科学で確かな連合をつくればよい。王様の命令も絶対ではなく、議会で話し合って観念連合をつくる民主主義がよい。経済も市場競争で観念連合をより良いものにつくっていけばよい、と。

 

 だから観念連合の「合」は、ヘーゲル哲学での「正」と「反」の連合でもある。

 

 左翼的見方は決して無価値ではないが、かといってヘーゲル的理性の完成をお膳立てするほどのものではなく、あくまで見方の1つに過ぎないと謙虚であった方がよい。

 

 時代によって何が「正」で何が「反」かは違う。幕末は最初幕府が開国で雄藩が攘夷だったが、結局は開国の雄藩が攘夷の幕府に勝った。現代社会も野党が護憲で自民党改憲になっているが、天皇制は野党が女性宮家を唱え与党が男系にこだわっている。

 

 正と反というほど単純ではなく、世界は複雑に構成されている。そこに連合もあれば、私が言うように逆の観念連合の分断もある。

 

 これは「正―反―分」でもある。

 

 アリストテレスが「範疇論」で述べた範疇(カテゴリー)でもある。有名な「形相と質料」での動植物の種類ごとの違いでもある。そして前述の単独者でもある。

 

 全貌はメインサイトをどうぞ。

 

 

 

 

 

 

やせたソクラテスになるな

 哲学者たちの言葉の多くが、20年経った今では額面通り受け取れなくなる。

 

 「神は死んだ、これからは超人だ」に対して「超人も死んだ、凡人でいい」

 

 「語り得ぬものには沈黙しなくてはならない」に対して「沈黙しなくたっていい、賑やかで楽しい」

 

 今回は「太ったブタよりもやせたソクラテスになれ」を扱う。

 

 確かに太ったブタは健康的にもビジュアル的にも精神的にも良くはない。かといって痩せたソクラテスは良いのか? 彼はギリシャで、若者と対話してその中に眠る真理に気づかせる、解答法を自ら見つけ出す活動をしていった。例えば図形に線を足して三角法に気づかせた。それ自体は良いことだ。

 

 やがて、知識を商売にするソフィストに恨まれて毒杯を仰ぐ刑を受けた。

 

 解答法を見つけ出すことを手伝う彼の手法を哲学では「産婆術」という。ただし、

 

 実際の産婆は出産を手伝うが、赤子ができるまでの過程とて当然ある。ソクラテスはその段階は重視せず、出産のみだった。

 

 やせたソクラテスが良くなく、適度な健康体で良い理由がここにある。

 

 

 

 

 

 

語り得ぬものについて沈黙してはならない

 もしウィトゲンシュタインが車の助手席に座っていたら・・。

 

 長時間のドライブで眠気を催してきたら、助手席に向かって「何でもいいから喋れ」と言うものだが、あいにく彼は主著「論理哲学論考」の末尾にて「語り得ぬものについて沈黙しなければならない」と言った男だ。それが有名になった以上、語り得ることに限って喋る。極めてつまらない。

 

 「おい、あれってこの先どうなるのかなあ」

 

 「さあ・・・」

 

 過去に起きた事実は喋っても未来に起こるかもしれない話には沈黙する。

 

 「君、今は正しいことを言わねばならない慎重な哲学者をやめて、眠たくなるドライバーを助ける助手席の人になってもらわないか?」

 

 ウィトゲンシュタインは従った。そして喋った。意外と面白い。博識なだけある。そういえばこの男は、大学の哲学教授の席へラッセルから誘われはしたが、けっこう在野の職業も経験している。

 

 あ、いま気付いた。

 

 「自分が哲学者という職にあるならば」という前置きを付け加えると、確かに「語り得ぬことには沈黙しなければならない」。